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1-1-3 法令科目 憲法 9条/103条 戦争

第二章 戦争の放棄

第二章「戦争の放棄」第九条「武力の放棄」についての賛否については議論があり過ぎるので、両論あるということに留め、ではこの第九条の条文をめぐって、実際にはどんな裁判がありどんな考え方があるのかについてご紹介します。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ある程度法律をかじった方々の中では常識となっている判例に「砂川事件(最大判昭34.12.16)」という事件があります。事例としては、駐留アメリカ軍が使用する砂川町の飛行場拡張工事に反対するデモ行進に参加した人がいましたが、日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反で起訴されました。

その方は、そもそも駐留アメリカ軍は憲法違反の存在であり、その憲法違反の集団が使う施設拡張に反対することが罪なのかとの理屈で反論しました。

このケースでは、デモ行進に参加したことが罪かどうかの判断する際に、前提となる憲法第9条と駐留アメリカ軍の関係を考察し、言及する必要があったため、本来デモ行進に参加した人が有罪か無罪かという裁判だったのですが、第9条に関する司法の見解が、判例中にてんこ盛りとなり、その結果非常に重要な判例となってしまいました。

裁判所の見解は、わが憲法の特色である平和主義を具体化した憲法9条は、戦争は放棄しています。そして、戦力の保持も禁止しています。 しかし「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」との見解を示しました。 まず戦力は放棄しても「①わが国固有の自衛権はあるのだ。」と言い切った上で、

「②自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然だ。」とも重ねて

この裁判の肝であるわが国に駐留する外国の軍隊は、憲法9条2項で保持しないと宣言した「戦力」に当たるかについては、「③戦力には該当しない。」と断定しました。

その理由は若干細かい理屈が並ぶので判決文を読みにくいのですが、

憲法9条2項が規定した「戦力」とは、「わが国が戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使すること により、憲法九条1項において永久に放棄することを定めた侵略戦争を引き起こすことのないようにするためである。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しない。」といっています。

禁止している「戦力」とは「侵略戦争を引き起こす戦力」であり「自衛のための戦力」をも禁止しているかは微妙なので別途検討するが、しかし少なくとも外国の軍隊については日本に指揮権、管理権があるわけでないので、ある意味日本とは関係がないので、憲法で禁止している「戦力」ではないとしました。

昨今、情報番組やニュースなどでパネリストの方々が喧々諤々議論しているのは、上記でいう「自衛のための戦力」についてのケースが多いのは、上記判例の存在があります。

また、この判例は判例の終盤で、もうひとつ大きなテーマについてコメントしているために、各種テストにおいても重要度が一段階上がり、超重要判例となってます。そのテーマとは「④日米安全保障条約は司法審査の対象となるか。」です。

判例では「安保条約の如き、主権国としてのわが国の 存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否の法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査の原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、それは第1次的に は、条約の締結権を有する内閣およびこれに 対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的 批判に委ねられるべきものである。」と言っています。

苫米地事件判決(最判昭35.6.8)が統治行為の存在を明確に認めたのに対し、本判決は、条約のように高度の政治性を有する国家行為であっても、一見極めて明白に違憲無効である場合は司法審査の対象となる可能性を認めている。したがって、本判決は、純粋な統治行為論を採用したものではない。

苫米地事件(最高裁昭和35年6月8日)

わが憲法の三権分立の制度の下においても 、司法権の行使についておのずからある限度の制約は免れないのであ つて、あらゆる国家行為が無制限に司法審査の対象となるものと即断す べきでない。直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり 、その判断は主権者たる国民に対して政治的責 任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられている ものと解すべきである。この司法権に対する制約は、結局、三権分 立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にか んがみ、特定の明文による規定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解 すべきものである。

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