第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第10回の「そもそも人権って何?」の中に出てきた「精神的自由権」を覚えていますか? 人権を自由権、社会権、参政権、受益権に分けて、そのまた自由権を3つに分けた中の一つでしたね。学問や表現などの精神的活動を行う権利と覚えたと思います。
「まだ、よく覚えきれていない」と感じた方は、もう一度、第10回を読んでから、ここに戻ってきてください。
さて、今回は、学問や表現などの精神的活動を行う権利である精神的自由権について、具体的に見ていきたいと思います。前回の包括的基本権と違って、今回以降は、過去に、国家権力によって侵害された人権の一つひとつが出てきます。
まず手始めは、第19条「思想および良心の自由」についてです。
我が国の明治憲法下においては、特定の思想を持つ人を反国家的なものとして国家権力で弾圧することが、日常的に行われていました。その反省として規定されたのがこの第19条です。また、思想や良心の自由を信教や表現の自由と区別して明文化しているのは、諸外国ではあまり見られません。ですから、第19条は、明治憲法下での弾圧がいかに悲惨だったかの表れとも言えます。
ここで謳ってている「思想及び良心の自由」とは、世界観や人生観、主義・主張のような個人の内面的な精神作用のことです。第19条では、国民がどのような世界観や人生観を持っていたとしても、心の内にとどまる限り制限されることはなく、絶対的に保障されることを意味しています。ですから、例えば、ある人が、現在日本がとっている民主主義制度を否定する考えを持っていたとしても、自分の中で考えたり、思ったりしているだけなら処罰されない、ということです。
また、第19条は、国民がどんな思想を持っているか、国家権力が調べたり、推し量ったり、申告させたりすることができないことも意味します。例えば、江戸時代の踏み絵のようなことは許されない、ということです。さらに、特定の思想を持っていることで不利益な取り扱いを受けることも許されないことも意味しています。
次の判例は、衆議院議員選挙で対立候補Yが汚職をしたと公表したⅩに対して、Yは名誉を毀損されたとして新聞紙上に謝罪広告を求める訴訟を起こし、裁判所はYの訴えを認めました。そこで、Ⅹはその判決に対して、新聞に謝罪広告の掲載を強制することは、憲法19条に違反するとして、提訴した事件です。
この事件で求められた謝罪広告の内容は、『放送(記事)は真相に相違しており、貴下の名誉を傷つけ御迷惑をおかけいたしました。ここに陳謝の意を表します』という内容のものでした。最高裁判所の判決は、この内容の謝罪広告を単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものだから、良心の侵害には当たらず、憲法第19条には反していないと言う結論を出しました。
しかし、この判決に対しては、謝罪・陳謝は倫理的意思であり、その公表を強制することは良心の自由を侵害し違憲であるとする別の見解あるとも言われています。
もう一つ、思想および良心の自由をめぐる事件を見てみましょう。
この事件は、原告(裁判を起こした人)は、中学校在学中に学生運動に傾倒し、機関紙を発行したり、集会に参加するなどの政治活動を行っていました。担任教諭は内申書の「基本的な生活習慣」「公共心」「自省心」の欄にC評価(3段階の最下位)を付けるとともに、備考欄に「文化祭粉砕を叫んで他校生徒とともに校内に乱入し、ビラまきを行った。大学生ML派の集会に参加している」などの原告の学生運動に関する経歴を記述しました。
高校受験では原告は受験したすべての高校で不合格になってしまいましたが、それは内申書に在学中の学生運動を記述されたからで、本人に内緒で政治活動のことを内申書に記載したことは憲法に違反するとして、東京都と千代田区に損害賠償を求めた事件です。
この事件の判例では、最高裁判所は、「中学校の担任は、内申書にその中学生が中学在学中に機関紙を発行したり、集会に参加したことを記載したが、そのことは発行したあるいは参加したという目に見える形の事実を記載しただけで、その中学生の思想信条、つまり目に見えない内心までを記載したものではない」としています。このことは、言い換えると、内申書に生徒の政治活動を記載することは、思想・良心の自由を侵害するものではないので記載してもいい、ということになります。
この事件での争点のもう一つに、内申書に政治活動を記載することは、プライバシー権の侵害に当たらないかということがあります。このことについて判旨では、「本件調査書の記載による情報の開示は、入学者選抜に関係する特定小範囲の人に対するものであって、情報の公開には該当しない」と言っています。つまり、内申書は特定小範囲の人に対してのみ開示するものであるから、内申書に個人の私生活に関する情報を記載しても、プライバシー権の侵害には当たらないのです。
実は、この原告(訴えた人)は、現在の世田谷区長の保坂展人氏です。2011年4月の区長選挙の際に、再びクローズアップされたのがこの事件なのです。
精神的自由権の1つ「思想・良心の自由」について、行政書士試験によく取り上げられる判例を2例挙げましたが、毎年3月になるとマスコミを賑わす「君が代斉唱問題」なども、思想・良心の自由に関係する問題の一つなので、動向を注意深く見守ることが必要かもしれません。
よど号ハイジャック記事抹消事件(最大判 昭58.6.22)
事例
国際反戦デー闘争に参加し、公務執行妨害罪 で逮捕・起訴され、拘置所に拘留されたA は、私費で新聞を定期購読していたが、拘置 所長が、よど号ハイジャック事件(過激派の 学生が日航機「よど号」を乗っ取り、北朝鮮 に行った事件)に関係する記事一切を黒く塗 りつぶして新聞を配布したため、かかる抹消 処分は違憲違法であるとして、国家賠償請求 訴訟を提起した。 注 抹消処分の根拠となった監獄法は、平成18年 に「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する 法律」に改められた
判例の 見解
①新聞、図書等を閲読する自由は、憲法 上、保障されているか。
およそ各人が、自由に、さまざまな意見、 知識、情報に接し、これを摂取する機会をも つことは、その者が個人として自己の思想及 び人格を形成・発展させ、社会生活の中にこ れを反映させていくうえにおいて欠くことの できないものであり、また、民主主義社会に おける思想及び情報の自由な伝達、交流の確 保という基本的原理を真に実効あるものたら しめるためにも、必要なところである。それ ゆえ、これらの意見、知識、情報の伝達の媒 体である新聞紙、図書等の閲読の自由が憲法 上保障されるべきことは、思想及び良心の自 由の不可侵を定めた憲法19条の規定や、表 現の自由を保障した憲法21条の規定の趣 旨、目的から、いわばその派生原理として当 然に導かれるところであり、また、すべて国 民は個人として尊重される旨を定めた憲法 13条の規定の趣旨に沿うゆえんでもある。 ②未決拘禁者(未決勾留により監獄に拘置 されている者)の閲読の自由に制限を加え ることができるか。
閲読の自由は、生活のさまざまな場面にわ たり、極めて広い範囲に及ぶものであって、 もとよりAの主張するようにその制限が絶対 に許されないものとすることはできず、それ ぞれの場面において、これに優越する公共の 利益のための必要から、一定の合理的制限を 受けることがある。未決勾留により監獄に拘 禁されている者の新聞紙、図書等の閲読の自 由についても、逃亡及び罪証隠滅の防止とい う勾留の目的のためのほか、監獄内の規律及 び秩序の維持のために必要とされる場合に も、一定の制限を加えられることはやむをえ ない。 ③未決拘禁者の閲読の自由の制限の合憲性 は、いかなる基準によって審査されるか。 未決勾留は、刑事司法上の目的のために必 要やむをえない措置として一定の範囲で個人 の自由を拘束するものであり、他方、これに より拘禁される者は、当該拘禁関係に伴う制 約の範囲外においては、原則として一般市民 としての自由を保障されるべき者であるか ら、監獄内の規律及び秩序の維持のためにこ れら被拘禁者の新聞紙、図書等の閲読の自由 を制限する場合においても、それは、右の目 的を達するために真に必要と認められる限度 にとどめられるべきものである。したがっ て、右の制限が許されるためには、当該閲読 を許すことにより右の規律及び秩序が害され る一般的、抽象的なおそれがあるというだけ では足りず、被拘禁者の性向、行状、監獄内 の管理、保安の状況、当該新聞紙、図書等の 内容その他の具体的事情のもとにおいて、そ の閲読を許すことにより監獄内の規律及び秩 序の維持上放置することのできない程度の障 害が生ずる相当の蓋然性があると認められる ことが必要であり、かつ、その場合において も、右の制限の程度は、右の障害発生の防止 のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべ きものと解するのが相当である。
判例の POINT
①本件は、未決拘禁者の閲読の自由に関する リーディングケースである。 ②本判決は、閲読の自由が19条・21条の派 生原理として保障されること、そして、未決 拘禁者にも保障されることを明らかにした。 ③本判決は、未決拘禁者の閲読の自由に対す る制限が合憲か否かを「相当の蓋然性」の基 準(判例の見解③)によって判断することを 明らかにした。
チェック判例
喫煙の自由は、憲法13条の保障する基本的人 権の一に含まれるとしても、あらゆる時、所にお いて保障されなければならないものではない。し たがって、拘禁の目的と制限される基本的人権の 内容、制限の必要性などの関係を総合考察する と、喫煙禁止という程度の自由の制限は、必要か つ合理的なものであり、未決勾留により拘禁され た者に対し喫煙を禁止する監獄法の規定は憲法13 条に違反するものといえない(最大判昭 45.9.16)。
死刑確定者の拘禁の趣旨、目的、特質にかん がみれば、死刑確定者の信書の発送の拒否は、死 刑確定者の心情の安定にも十分配慮して、死刑の 執行に至るまでの間、社会から厳重に隔離してそ の身柄を確保するとともに、拘置所内の規律及び 秩序が放置することができない程度に害されるこ とがないようにするために、信書の制限が必要か つ合理的であるか否かを判断して決すべきもので あり、具体的場合における右判断は拘置所長の裁 量に委ねられている(最判平11.2.26)。
三菱樹脂事件(最大判昭48.12.12)
事例
Aは、大学を卒業して三菱樹脂株式会社に就 職したが、試用期間中に、入社試験の際に学 生運動歴につき虚偽の申告をしたことが判明 したため、本採用を拒否された。Aが労働契 約関係の存在確認の訴えを提起したところ、 控訴審が憲法14条、19条を適用してAの請 求を認容したため、会社は、14条、19条は 私人間に適用されないとして上告した。
判例の 見解
①憲法14条、19条は、私人間に直接適用さ れるか。
これらの規定は、憲法第3章のその他の自由 権的基本権の保障規定と同じく、国または公 共団体の統治行動に対して個人の基本的な自 由と平等を保障する目的に出たもので、もっ ぱら国または公共団体と個人との関係を規律 するものであり、私人相互の関係を直接規律 することを予定するものではない。 ②私人間に支配・服従の関係がある場合に 限って人権規定の私人間への適用ないし類 推適用を認めるべきか。
私人間の関係においても、相互の社会的力 関係の相違から、一方が他方に優越し、事実 上後者が前者の意思に服従せざるをえない場 合があり、このような場合に私的自治の名の 下に優位者の支配力を無制限に認めるとき は、劣位者の自由や平等を著しく侵害または 制限することとなるおそれがあることは否み 難いが、そのためにこのような場合に限り憲 法の基本権保障規定の適用ないしは類推適用 を認めるべきであるとする見解もまた、採用 することはできない。 ③憲法14条、19条は、私人間に間接的に適 用することができるか。
私的支配関係においては、個人の基本的な 自由や平等に対する具体的な侵害またはその おそれがあり、その態様、程度が社会的に許 容しうる限度を超えるときは、これに対する 立法措置によってその是正を図ることが可能 であるし、また、場合によっては、私的自治 に対する一般的制限規定である民法1条、 90条や不法行為に関する諸規定等の適切な 運用によって、一面で私的自治の原則を尊重 しながら、他面で社会的許容性の限度を超え る侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保 護し、その間の適切な調整を図る方途も存す る。 ④会社は、特定の思想・信条を有すること を理由に採用を拒否することができるか。
憲法は、思想、信条の自由や法の下の平等 を保障すると同時に、他方、22条、29条等 において、財産権の行使、営業その他広く経 済活動の自由をも基本的人権として保障して いる。それゆえ、企業者は、かような経済活 動の一環としてする契約締結の自由を有し、 自己の営業のために労働者を雇傭するにあた り、いかなる者を雇い入れるか、いかなる条 件でこれを雇うかについて、法律その他によ る特別の制限がない限り、原則として自由に これを決定することができるのであって、企 業者が特定の思想、信条を有する者をそのゆ えをもって雇い入れることを拒んでも、それ を当然に違法とすることはできない。 ⑤会社は、労働者の採否決定にあたり、そ の思想・信条を調査することができるか。
企業者が雇傭の自由を有し、思想、信条を 理由として雇入れを拒んでもこれを目して違 法とすることができない以上、企業者が、労 働者の採否決定にあたり、労働者の思想、信 条を調査し、そのためその者からこれに関連 する事項についての申告を求めることも違法 行為ではない。
判例の POINT
①本件は、私人間効力(憲法の人権規定が私 人間の関係に適用されるかという問題)に関 するリーディングケースである。 ②私人間効力については、無効力説、直接適 用説、間接適用説(民法90条等私法の一般 条項を人権規定の趣旨を取り込んで解釈する ことにより、私人間に人権規定の効力を間接 的に及ぼそうとする見解)等が主張されてい るが、本判決は、間接適用説を採っている。
関連判例
日産自動車事件(最判昭56.3.24) 定年年齢を「男子60歳、女子55歳」とする男女別 定年制は、民法90条に違反するか。
最高裁は、少なくとも60歳前後までは、男女と も通常の職務であれば企業経営上要求される職務 遂行能力に欠けるところはない等の理由で民法90 条違反とした原審の判断を支持し、本件男女別定 年制は、性別のみによる不合理な差別を定めたも のとして民法90条により無効であるとした。
昭和女子大事件(最判昭49.7.19)【過去問】18-3 大学は、学生の政治活動を制限することができる か。
大学は、国公立であると私立であるとを問わ ず、学生の教育と学術の研究を目的とする公共的 な施設であり、法律に格別の規定がない場合で も、その設置目的を達成するために必要な事項を 学則等により一方的に制定し、これによって在学 する学生を規律する包括的権能を有する。私立大 学のなかでも、学生の勉学専念を特に重視しある いは比較的保守的な校風を有する大学が、その教 育方針に照らし学生の政治的活動はできるだけ制 限するのが教育上適当であるとの見地から、学内 及び学外における学生の政治的活動につきかなり 広範な規律を及ぼすこととしても、これをもって 直ちに社会通念上学生の自由に対する不合理な制 限であるということはできない。 私立大学である昭和女子大学が「生 活要録」(学則を具体化した学生心得)の規定に 違反して政治活動をした学生を退学処分にしたと いう事案である。最高裁は、生活要録の規定につ いて直接憲法の右基本権保障規定に違反するかど うかを論ずる余地はないとした上で、大学に学生 を規律する包括的権能を認めた。
謝罪広告強制事件(最大判昭31.7.4)
事例
衆議院選挙の候補者Aは、選挙運動中、政見 放 送及び新聞で対立候補Bの名誉を毀損した とし て訴えられた。裁判所が、民法723条に 基づき 謝罪広告を新聞紙上に掲載することを 命じたた め、Aは、謝罪広告の強制は憲法 19条の保障す る良心の自由を侵害すると主 張した。
判例の 見解
①単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明 する 謝罪広告を強制することは、思想・良 心の自由 を侵害するか。
謝罪広告を命ずる判決にもその内容上、こ れを 強制することが加害者の人格を無視し著 しくそ の名誉を毀損し意思決定の自由ないし 良心の自 由を不当に制限することとなり、強 制執行に適 さない場合もありうるが、単に事 態の真相を告 白し陳謝の意を表明するに止ま る程度のものに あっては、これを強制するこ ともできる。 ②本 件の謝罪広告の強制は、思想・良心の 自由を侵 害するか。
本件の謝罪広告は、「放送及び記事は真相 に相 違しており、貴下の名誉を傷つけ御迷惑 をおか けいたしました。ここに陳謝の意を表 します」 なる内容のもので、公表事実が虚偽 かつ不当で あったことを広報機関を通じて発 表すべきこと を求めるものにすぎず、この種 の謝罪広告を新 聞紙に掲載すべきことを命ず ることは、良心の 自由を侵害するとはいえな い。
判例の POINT
①本判決は、謝罪広告の内容によっては思 想・ 良心の自由を侵害する場合があることを 認めつ つ、単に事態の真相を告白し陳謝の意 を表明す るに止まる程度のものであれば、思 想・良心の 自由を侵害しないことを明らかに した。 ②本判 決の多数意見が「陳謝の意を表しま す」という 表現まで強制できるとしている点 については、 19条に違反するとの反対意見 がある。
関連判例
麹町中学内申書事件(最判昭63.7.15) 内申書 に学生運動歴を記載することは、憲法19条 に違 反するか。
内申書の記載は、思想・信条そのものを記載し たものでないことは明らかであるし、右の記載 に かかる外部的行為によっては、思想・信条を 了知 することはできないから、違憲の主張は採 用する ことができない。 本件は、麹町中学の卒 業生が、高校 の入試試験で不合格となったの は、内申書に「麹 町中全共闘を名乗り、機関誌 を発行し、文化祭粉 砕を叫んで校内に乱入し た」等の学生運動歴を記 載されたためであると して、千代田区と東京都に 対し国家賠償を求め た事件である。
国歌斉唱職務命令と憲法19条(最判平 23.5.30)
事例
都立高校の教諭Aは、卒業式における国歌斉 唱 の際に国旗に向かって起立し国歌を斉唱す るこ と(以下「起立斉唱行為」という。)を 命ずる 旨の校長の職務命令に従わず、国歌斉 唱の際に 起立しなかった。その後、Aは、定 年退職に先 立ち、退職後の非常勤嘱託員の採 用選考に申込 をしたが、東京都教育委員会 (以下「都教委」 という。)から、上記不起 立行為が職務命令違 反等に当たることを理由 に不合格とされたた め、上記職務命令は憲法 19条に違反し、Aを不 合格としたことは違 法であるなどと主張して、 東京都に対し、国 家賠償法1条1項に基づく損 害賠償等を求め た。
判例の 見解
①卒業式における国歌斉唱の際に国旗に向 かっ て起立し国歌を斉唱すること(起立斉 唱行為) を命ずる旨の校長の職務命令は、 思想良心の自 由に対する制約となるか。
起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科 等や 日常従事する事務の内容それ自体には含 まれな いものであって、一般的、客観的に見 ても、国 旗及び国歌に対する敬意の表明の要 素を含む行 為であるということができる。そ うすると、自 らの歴史観ないし世界観との関 係で否定的な評 価の対象となる「日の丸」や 「君が代」に対し て敬意を表明することには 応じ難いと考える者 が、これらに対する敬意 の表明の要素を含む行 為を求められること は、その行為が個人の歴史 観ないし世界観に 反する特定の思想の表明に係 る行為そのもの ではないとはいえ、個人の歴史 観ないし世界 観に由来する行動(敬意の表明の 拒否)と異 なる外部的行為(敬意の表明の要素 を含む行 為)を求められることとなり、その限 りにお いて、その者の思想及び良心の自由につ いて の間接的な制約となる面があることは否定 し 難い。 ②思想良心の自由に対する間接的な制 約が 許容されるかどうかの判断基準 個人の歴史 観ないし世界観には多種多様な ものがあり得る のであり、それが内心にとど まらず、それに由 来する行動の実行又は拒否 という外部的行動と して現れ、当該外部的行 動が社会一般の規範等 と抵触する場面におい て制限を受けることがあ るところ、その制限 が必要かつ合理的なもので ある場合には、そ の制限を介して生ずる間接的 な制約も許容さ れ得るものというべきである。 …間接的な制 約が許容されるか否かは、職務命 令の目的及 び内容並びに上記の制限を介して生 ずる制約 の態様等を総合的に較量して、当該職 務命令 に上記の制約を許容し得る程度の必要性 及び 合理性が認められるか否かという観点から 判 断するのが相当である。 ③本件職務命令は、 憲法19条に違反する か。
本件職務命令は、公立高等学校の教諭であ るA に対して当該学校の卒業式という式典に おける 慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱 の際の起 立斉唱行為を求めることを内容とす るもので あって、高等学校教育の目標や卒業 式等の儀式 的行事の意義、在り方等を定めた 関係法令等の 諸規定の趣旨に沿い、かつ、地 方公務員の地位 の性質及びその職務の公共性 を踏まえた上で、 生徒等への配慮を含め、教 育上の行事にふさわ しい秩序の確保とともに 当該式典の円滑な進行 を図るものであるとい うことができる。 以上の 諸事情を踏まえると、本件職務命令 について は、外部的行動の制限を介してAの 思想及び良 心の自由についての間接的な制約 となる面はあ るものの、職務命令の目的及び 内容並びに上記 の制限を介して生ずる制約の 態様等を総合的に 較量すれば、上記の制約を 許容し得る程度の必 要性及び合理性が認めら れるものというべきで ある。…本件職務命令 は、Aの思想及び良心の 自由を侵すものとし て憲法19条に違反するとは いえないと解す るのが相当である。
判例の POINT
「起立斉唱行為を命ずる職務命令は、憲法 19条 に違反しない」という結論自体は、後 掲「君が 代」ピアノ伴奏職務命令拒否事件 (最判平 19.2.27)を前提に考えれば、十分 に予想され たものであり、特に目新しいもの ではない。し かし、本判決には、「君が代」 斉唱を命ずるこ とが思想良心の自由に対する 間接的な制約とな ることを明らかにするとと もに、そのような制 約が許されるかどうかの 判断基準も明らかにし た点において、平成 19年判決にない大きな意義 があると言え る。
関連判例
「君が代」ピアノ伴奏職務命令拒否事件(最判 平19.2.27) 市立小学校の校長が音楽専科教諭 に対し入学式で の国家斉唱のピアノ伴奏を命じ ることは、19条に 違反するか。
最高裁は、①入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴 奏を求めることを内容とする職務命令は、教諭 の 歴史観ないし世界観を否定するものではない こ と、②入学式の国歌斉唱の際に「君が代」の ピア ノ伴奏をする行為は、音楽専科の教諭等に とって 通常想定され期待されるものであり、当 該教諭等 が特定の思想を有するということを外 部に表明す る行為であると評価することは困難 であり、職務 命令は教諭に対し特定の思想を持 つことを強制し たりこれを禁止したりするもの ではないこと等を 理由に、本件職務命令は憲法 19条に反しないとし た。 本件は、「君が代」 は過去の日本の アジア侵略と結びついていると 考えている市立小 学校の音楽専科教諭が、入学 式での国家斉唱のピ アノ伴奏を命じる校長の職 務命令を拒否して戒告 処分を課されたことを不 服とし、当該職務命令は 憲法19条に違反すると して、処分の取消しを求め た事件である。
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第14回では、精神的自由権の一つとして、日本国民はどんな思想や主義を持っていても、心の内に留めておけば処罰されたり、思想や主義の変更を求められないことを学びましたね。人が自思想や主義のほかにもう一つ「宗教」があります。
人間が、一般的にどんな宗教を信仰しても許される権利を「信教の自由」と言いますが、この信教の自由は、中世ヨーロッパの宗教的弾圧に対する抵抗から発生し、その後もさまざまな宗教戦争を経て成立した経緯を持つ、歴史的に重要な、意義ある精神的自由権の一つです。
日本でも安土桃山時代から明治の初めまで、キリスト教が禁止されていた時代がありました。明治政府がキリスト教の活動を公式に認めたのは、明治維新から31年経った1899年です。今でこそ当たり前に感じる信教の自由ですが、意外に歴史は浅いと思いませんか?
さて、日本国憲法では第20条第1項で、国民が宗教を信仰してもしなくても、宗教の選択や変更をすることも、自由に決定できると規定しています。さっそく、憲法第20条を読んでみましょう。
第20条で規定されている「信教の自由」は、次の3つから構成されています。
1.信仰の自由
2.宗教的行為の自由
3.宗教的結社の自由
1の信仰の自由とは、宗教を信仰してもしなくても、選択や変更をすることも個人の自由にできるという権利、2の宗教的行為の自由とは宗教上の祝典・儀式・行事や布教などを自由に行えるという権利、3の宗教的結社の自由とは宗教行為を行うことを目的とする団体を自由に結成できるという権利です。
このうちの信仰の自由は、心の中に留まるものですから、思想・良心の自由と同じように絶対的に保障されています。
しかし、これに対して宗教的行為の自由や宗教的結社の自由は、外部への行為を伴うものなので、他人の権利や利益にマイナスになったり、社会に悪影響を及ぼす場合には、制限されることがあります。
では、なぜ他人の権利や利益にマイナスになったり社会に悪影響を及ぼすと、制限の対象となるか分かりますか? もう分かりますね!
「公共の福祉」に反するからなのです。
まず、宗教的行為の自由について争われた事件として代表的な一つの判例を見てみましょう。
ある宗教の祈祷師が、精神病を患っていると思われる女性の母親から依頼されて、女性の病気を治すために、縛り付け・押さえ付けて加持祈祷を行いましたが、その際にお線香の煙でいぶしたり、殴るなどの暴行を加え、その結果女性は全身に皮下出血を負い、急性心臓麻痺で死に至りました。宗教上の行為に当たる祈祷師が行う加持祈祷は、信教の自由の保障が適用されるか否かが争点となった事件です。
裁判所は、宗教の加持祈祷行為でも人を死に至らすような場合は宗教的行為の限界を超えているとし、祈祷師を処罰することは違憲ではない、と判断しました。言い換えれば、宗教的行為の自由は、他の人の利益を侵害する場合は制限を受けると言うことです。つまり、宗教的行為の自由は、公共の福祉の制限を受けるのです。
次は、宗教的結社の自由について争われたオウム真理教解散命令事件についてです。この事件は、言わずと知れた、大量殺人を目的として計画的で組織的にサリンを生成した宗教法人・オウム真理教に対して、宗教法人法の所定の事由に該当するとして解散命令が出された事件です。
この事件は、心情的には、判例を見るまでもなく誰もが解散は当然と思う事件ですが、ここは、行政書士試験受験のための勉強なので、法律に従って、判例を読んでみましょう。
裁判所は、まず、「解散命令が出て宗教法人としての法人格を失っても、団体そのものが消滅するわけではなく、法人格を有しない宗教団体として存続していくことができ、信仰を実践していくことはできる」とあくまで、信教の自由は認めています。あのオウム真理教でも、自分で信仰するだけならOKというのです。
そして、「確かに、解散命令が出ると清算手続きが進み、教団が持っていたさまざまな財産を処分しなければならず、その意味で今まで通りに信仰生活が送れなくなることはあるかも知れない」とも言っています。さらに、「憲法が保障する『信教の自由』の重大さに鑑み、宗教法人に対するこのような法的規制が、憲法上許されている行為なのか、実体的に見ていく必要がある」とも言っています。
しかし、原審(下級裁判所で行った第一審)が確定した事実として、オウム真理教の教祖や幹部は、多数の信者を動員し、教団の資金を投入して大量殺人を目的とした毒ガス・サリンを大量に生成したこと明らかになっています。そこで、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められるとともに、宗教団体の目的を著しく逸脱した行為と明らかなので、解散命令は違憲ではない、と結論づけました。
この事件も、公共の福祉を害する行為であることが、解散命令が出される要因の一つとなったのです。
このほか、信教の自由をめぐる事件で重要な判例は、俗に剣道実技拒否事件と言われる事件です。下表の判旨をよく読んで、何が憲法第20条に対して問題となっているのかを、しっかり確認しましょう。
判旨の中に「政教分離原則」という聞きなれない言葉が出てきましたね。次回は、その「政教分離原則」について、細かく見ていくことにします
判例中の判旨に「政教分離原則」という言葉が出てきましたね。この政教分離原則は一見同じような事件でも、違憲判決も合憲判決もある微妙なテーマです。しかも、行政書士試験でもしばしば出題されるテーマなので、特に取り上げて解説します。
Ⅰ.政教分離原則とは
第15回の憲法第20条の条文をもう一度読んでみましょう。
ここには、第15回で学習した、国民は自由に宗教を信仰することも信仰しないこともでき、宗教の選択も変更も自由にできることが書かれているとともに、次の2つのことも書かれています。
①宗教団体は国から特権を受けたり、政治上の権力を行使してはならない(第1項後段)
②国やその機関はどんな宗教的活動もしてはならない(第3項)
この2つを言い換えると、国家には、宗教的に中立であることが求められていることに他ならず、これを「政教分離原則」と呼びます。
歴史の中で、古今東西、国を問わず、国家が特定の宗教と結びつくとき、異教徒や無宗教者に対する宗教的迫害が行われた苦い歴史が繰り返されています。
日本では、明治憲法下で、天皇を神として崇める神社神道を事実上の国教として扱い、国は軍国主義政策の精神的基盤としてこれを利用してきました。その反省に基づいて、日本国憲法においては特に政治権力が宗教を利用することを厳格に禁じていると言えます。
Ⅱ.政教分離原則の限界
政教分離原則は、国家が宗教的に中立ということが求められていると言いましたが、国家と宗教と関わり合いを持つことを 一切許さないということではありません。どうしてかと言えば、国が福祉国家として、宗教団体に対しても他の団体と同様の扱いをしなければならない場面も出てきます。例えば、宗教団体が経営する私立学校も他の学校と同等に補助金を交付することなどです。また、初詣や地鎮祭など国民の慣習となっている宗教行為もあるからです。
そこで、大切になってくるのが、「どの程度までなら許されるか」です。次に地方公共団体の行為が合憲となった判例と違憲となった判例を1つずつ記載します。2つの判例の判決の分かれ目は何か、しっかりと掴んでいくことにしましょう。
津地鎮祭事件は、三重県の津市は、体育館の建設に当たって地鎮祭を行いましたが、その際の神官への謝礼・供物の代金等として公金を支出しました。この支出に対して、A市議会議員が「この支出は憲法第20条、第89条違反に当たる」として、地方自治法における住民訴訟を起こした事件です。
一方、愛媛県玉串料訴訟事件は、愛媛県が、靖国神社の例大祭やみたままつりの玉串料(神様への御供え料)を県の公金で支出しましたが、愛媛県の住民団体が「この支出は憲法第20条3項、第89条に違反する」として、愛媛県知事に対し、指揮監督上の義務に違反しているとして訴訟を起こした事件です。
両訴訟とも、地方公共団体の行為が政教分離原則に反するのか否かが問われた裁判でした。結果は、津の訴訟では合憲、愛媛の訴訟では違憲の判決が下りました。この2つの判決の分かれ目は、「目的・効果基準」と呼ばれるものです。
目的・効果基準とは、目的と効果の2つに着目して政教分離に反するか反しないか、を判断する基準のことです。
★その行為の目的が世俗的なものであって宗教的なものでないこと
★その主要な効果が宗教を援助、助長する、または抑圧するものでないこと
以上の基準がクリアできれば、その行為は政教分離原則に違反しない=合憲と判断されます。
津の訴訟では、宗教と関わり合いをもつものであるが、一般的慣習に従った儀礼に留まっており、合憲とされました。
まず、目的に着目します。地鎮祭の目的は土地をお払いして土地の平安を願ったり、工事が無事に完了するよう願ったりするものです。ここではあくまで土地の平安・工事の無事を願うのが目的なので、目的に宗教的意義はなく目的の基準はクリアです。
続いて、効果に着目します。効果は一般的な慣習にすぎないと判断しました。地鎮祭は、私たちが日常生活でクリスマスツリーを飾ったり、節分に豆まきをするのと同様の程度のことであるという意味です。つまり、地鎮祭をした神主さんに援助、助長、促進、圧迫、干渉、といった効果はもたらさないと判断されたのです。これにより、効果の基準もクリアです。したがって、地鎮祭に対する公金支出は合憲とされました。
一方、愛媛の訴訟では、特定の宗教団体が主催する重要な宗教的色彩の強い祭祀において県が玉串料の支出しており、宗教に対する関心を呼び起こす危険性(助長等)が認められたため、違憲と判断されたのです。
まず、目的に着目します。玉串料とは、靖国神社・県護国神社の祭祀において神前に供えるものです。そして、奉納された玉串料は、祭祀の際に宗教上の儀式を行うために使われるので、玉串料奉納は宗教的意義を持つと判断されました。玉串料奉納は一般的な慣習とはいえず、地鎮祭とは区別すべきだ、としたのです。ですから、目的に宗教的意義があり、目的の要件はクリアできていません。
続いて効果に着目します。玉串料奉納のもたらす効果は、県知事が玉串料を奉納した宗教団体だけを援助・助長・促進したことになります。他の宗教団体には同様の支出をしていないので、他の宗教団体にとっては圧迫・干渉となります。
以上のことから、玉串料奉納は特定の宗教団体に援助、助長、促進、圧迫、干渉、といった効果をもたらす、としました。効果の要件もクリアできていません。
したがって、愛媛県知事の玉串料奉納は違憲とされました。
2つの事件を比べて、内容の差が分かりましたか? なお、憲法第89条には、政教分離原則を財政面からフォローして規定が定められています。
現在に至るまで、政教分離原則違反とした判例は、記載の「愛媛県玉串料訴訟」と、市が町内会に対して市有地を無償で神社の敷地として利用させたことの合憲性が争われた「空知太神社訴訟」の2つしかありません。
合憲となった判例とともに下表にまとめましたので、参考にしてください。
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自衛官合祀拒否事件(最大判昭63.6.1)
事例
クリスチャンであるAは、交通事故で死亡し た 夫(自衛官)が護国神社に合祀されたた め、自 己の宗教上の人格権を侵害されたとし て、合祀 申請をした社団法人隊友会と自衛隊 地方連絡部 に対し損害賠償と合祀申請の取消 しを求める訴 えを提起した。 注 合祀(ごうし);複数の神や 霊を1つの 神社に合わせてまつること。 隊友 会:国民と自衛隊の相互理解、会員 の親睦・相 互扶助等を目的として自衛隊退職 者で組織され る公益法人。
判例の 見解
①自衛隊地方連絡部の職員が私的団体であ る隊 友会の合祀申請に協力することは、憲 法20条3 項に違反するか。
隊友会が合祀を申請する過程において、自 衛隊 地方連絡部の職員が合祀実現により自衛 隊員の 社会的地位の向上と士気の高揚を図る 意図、目 的の下に協力して、他の地方連絡部 に対し殉職 自衛隊員の合祀状況等を照会し、 その回答を右 連合会会長に閲覧させるなどし た行為は、宗教 とのかかわり合いが間接的 で、職員の宗教的意 識もどちらかといえば希 薄であり、その行為の 態様からして国又はそ の機関として特定の宗教 への関心を呼び起こ し、あるいはこれを援助、 助長、促進し、又 は他の宗教に圧迫、干渉を加 える効果をもつ ものと一般人から評価される行 為とは認めら れず、憲法20条3項の宗教的活動 に当たら ない。 ②「静謐(せいひつ)な宗教的 環境の下で 信仰生活を送るべき利益」は、法的 利益 か。
人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上 の行 為によって害されたとし、そのことに不 快の感 情を持ち、そのようなことがないよう 望むこと のあるのは、その心情として当然で あるとして も、かかる宗教上の感情を被侵害 利益として、 直ちに損害賠償を請求し、又は 差止めを請求す るなどの法的救済を求めるこ とができるとする ならば、かえって相手方の 信教の自由を妨げる 結果となる。信教の自由 の保障は、何人も自己 の信仰と相容れない信 仰をもつ者の信仰に基づ く行為に対して、そ れが強制や不利益の付与を 伴うことにより自 己の信教の自由を妨害するも のでない限り寛 容であることを要請しているも のというべき である。このことは死去した配偶 者の追慕、 慰霊等に関する場合においても同様 であ る。宗教上の人格権であるとする静謐な宗 教 的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるも のは、これを直ちに法的利益として認めるこ と はできない。
判例の POINT
①本判決では、政教分離原則違反、信教の自 由 の侵害双方が争点となっている。 ②政教分離原 則違反の点については、合祀は 隊友会の単独申 請であると認定した上で、自 衛隊地方連絡部の 職員の行為について目的効 果基準(後掲津地鎮 祭事件参照)を用い、政 教分離原則違反となら ないとしている。 ③信教の自由の侵害について は、「静謐な宗 教的環境の下で信仰生活を送る べき利益」の 法的利益性を否定し、Aには被侵 害利益がな いとしている。